昭和44年2月11日  朝の御理解



  36節「日本国中のあらゆる神をみな信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ、人にものを頼むにも、一人に任すとその人が力を入れて世話をしてくれるが、多くの人に頼めば相談にくれて物事はかどらず、大工を雇うても棟梁がなければならん、草木でも芯と言うたら一つじゃ、神信心もこの一心を出すとすぐおかげが受けられる」と。
  今日私はここの「物事はかどらず」というところ、ね、皆さんが願いを様々に立てておられる、その願いがはかばかしくない、願いがはかどらない、そのことはですね、「神信心もこの一心を出すとすぐおかげが受けられる」と仰せられる、神信心もこの一心を出すとすぐおかげが受けられる、「すぐおかげが受けられる」というところを、をです、物事がはかどらないというのはどうしたことであろうかというところをね、一つ焦点にお話しを進めて行きたいと思う。
  勿論この36節が、え~「日本国中のあらゆる神を」と言うておられるのですから、え~まあ何々様、どこの何々仏様と、いうように仏様、神様、あらゆるその、ん~、あれですね八百万の神神様、それでも足らずにまた、そのやっぱ八百万の仏様まで拝ましてもらうのが、信心が厚いようにこう思われておるむきがありますね、何様に頼み神様に頼みということ、ね、そういう事ではなくてですたいね、やはり一人に任すということ、いわゆる「此方一心と定めい」とこうおっしゃるようなところですね、「本気で金光教の信心によって助かろう」と、「御道の信心によって助かろう」と、もうわきめもふらない、と言うてなら神仏を軽う見たり御粗末にしてはならない、ね、「薮神子神でも迷うておる時には一礼をするような心持ちは忘れるな」と言われるけれども、「願うところ頼むところは此方一心だ」と言うように、と言うてここには説いてございますけれども、今日は私はなるほど他の何々様を拝まない、もう自分の家にはもう大神宮様もござらなければ荒神様もござらない、何々様もみんな親先生にお願いをしてから一括してしもうて、もう金光様一点張りで行きよる、なるほどそういう人がここで多いですよね、私共もそうであった、大神宮様も荒神様もみんな天地金乃神様の中に包含してもろうた、ね、あの今日のツツミさんなんかはそうでしたよね、あの奥さんがあの大病でおかげを受けられて、謝恩祭を一番始めになさる時にです、私行って驚きました、もうあちらの言うならねぎだれきれだれですね、いわゆるその家の周囲は全部何々様で取り囲んであった、しかもコンクリでですね大きく作ったおいなり様があったりね、それはもうおいなり様のごとうっ、当人様が見えて毎月その御払いがあったり御祭があったりするほどに熱心じゃった、けれどもそれでおかげを受けられなかった、ね、医者も、もう癌という病気ですから、難しい、そこでここにお導きを頂いておかげを頂いておかげを頂いて初めて神様をお祭して、いわゆる金光様を、自分の家の一番、ん~お座敷の床の間を全部、その神床につつらえて、お祭がございました時にです、私がその全部の、もうそれこそコンクリートでしてあるとですけね、壊すとに大変でした、もう本当に、だからツツミさんは信心深い、若いのに信心深いとその若い時からそういう信心をする、ですからもう朝起きたならゴイルゴイールとこうやって叩いて拝んで回らなきゃいけんというほどにあったんです、ね、それを全部壊して、それはもう「こげなものはいらん」というのじゃなくて、天地の親神様の中に言わば包含された、一緒にお祭して頂いた、近所の方が言うておった「あげな事しよるなら今にろくな事なか」ち、ところがろくな事がなかどこじゃない、一年一年それこそおかげを頂いて行っております、こうじょうが(?)、家が奇麗になるというようなおかげを頂いておる、ね、言わば此方一心と定めなさったわけなんです、ね、だからそういう意味のことをここでは言うてございます、確かにそういうね、迷うという心はおかげが受けられませんですね、「日本国中のあらゆる神を信心すると言うが、それはあまりの信心じゃ」と、ね、人にものを頼むにも、一人に任すとその人が力を入れて世話をしてくれる、確かにそういう道理だと、言われてあるですね、「多くの人に頼めば相談にくれて物事はかどらず」と、今日はここの物事はかっ、なら金光様の御信心一本になったんだけれど、ね、他の何々様もみんな天地の親神様の中へ包含して頂いて、拝むところはもう御先祖様のいわゆる霊様と、神様より他にはないというようにさして頂いたのにもかかわらずです、物事はかどらないというのはどういうわけか、というところを今日はね一つ追求して行きたい。
  私は思うんですけれどもね、ならなるほど金光様一点一本ですけれどもね、心の中にね、一心と定まっていないということだとこう思う、ね、「その一心を出すとです、すぐにおかげが受けられる」とこう仰せられるんです、ね、毎日朝こうやって朝の御祈念にお参りさして頂いて、御理解を頂いて有り難いなぁと思うて帰る、だからその有り難いなぁと思うて頂いて帰るだけではいけない、私はここんところをどういう風に、さるだろうかと思って、あのこちらの神誡神訓のところにはどういうに出るだろうかと思うてあのお願いしてはぐって頂いたらこの神誡というところね、御神誡、ここの白紙のところを、御神誡というところを頂くんです、その御理解に頂くのはね、神という字はネ遍に申すという字が書いちゃる、ね、誡という字は言遍に戒、ね、今いましめ、これはどういうことかと言うとね、このみ教えという、特にこの御神誡などはですね、え~、ネながら申してもで、と神ということ、「ネながら申しても」ということはね、「自分が行じないで言うても」ということ、「自分が頂かずしてそれを人に頂かせようとしても」ということなのだ、ね、例えて言うなら親自身が頂かずしておいて子供頂かせようとしておる、ね、そして「言う事を聞かん言う事を聞かん」とこう言う、ね、そこんところをここには、誡という字は言うて聞かせてあるんだ、戒めてあるんだと、いう風に私頂いた、ね、例えて言うなら今年の例えばスローガンでありますいよいよ、お~「より明るくよりにこやかに」と、ね、そのこと例えば一心にです、「今日もどうぞよりにこやかでありますように」と「より明るくありますように」と、その事を祈り縋らしてもらい、その事に取り組み精進しぬくということなのだ、分かっておるだけでいっちょんにこやかじゃない、言うておるだけで、いわゆるネながら言うておるだけなのだ、というような、言うておるだけでぎょうっ、実行していなじゃないか。
  昨日私、あの親教会の月次祭を終えて帰らせて頂いた、帰らせて頂いたら丁度、おぉ善導寺の(?)のところから一家中でお礼に出てきており、前の日は謝恩祭でしたから、子供達も皆、まあこたつを囲んで、お茶を頂きよるところへ帰ってきた、いつも私があの行きますと、この福岡の高橋さん所のこまかつ、それから繁夫さんたつのこまかつが兄弟が出来た、ね、私が行くといつもその蜘蛛の子を散らしたように逃げて行くんですよ、もう本当にそう、私が「純ちゃん純ちゃん」っち言うてもずーっと向こうに逃げて行く、「よねこちゃん」っち言うと向こうへ、その逃げて行くんです、ところが昨日はどうしたものかその、まあニコニコとその、私の側へ寄ってきてですね、私がサイダーを頂かしてもらいよったら、サイダー(?)「サイダーが飲みたい」、それで私と一緒にそのサイダーを飲んで喜んでるんですよ、そしてその純坊が言うことがですね、「僕は親先生の笑いよんなさるとば初めて見た」っち、もうこれには私もギャフンときましたですね(笑)、「ほんなこと私(?)ことぶっちょ面ばかりしとるけん今まで逃げ回りよったっじゃろう」とこう、「僕は、親先生が笑いなさっと僕は初めて見た」っち言うてから、と言うてその笑わせよるんですけれども、「ほんなこてそうじゃろう」とこう私が思うてですね、「にこやかに」とか、ね「明るく」とか言いよる私自身が、ネながら言うておるだけで、実際私がにこやかでなかった、昨日は善導寺の御月次祭を頂いて有り難うなって帰ってきとるもんですから、何とはなしににこやかだったんでしょうね、私それよってこないのによって来てから、お菓子を頂いたりサイダーを飲んだりするんですよ、ね、私あの、んまた、え~、もう二時か三時、そんくらいだったでしょうかしら、う~ん、テレビ、丁度、北野から、あの、長著選挙の、う~ん、お願いがあっておりました、それで、え~、そのお礼に、向こうから出てきておりましたから、おおせ室に通しとったからあそこで色々お話しをさして頂いておったんですけどね、まっこれはまあ余談ですけれど、私が言うんですよ、あの「とにかく苦戦をしとりますからどうぞ当選のおかげを頂きますように」と、異句にからもお届けがあっておったんです、それが池田さんという方ともう一人の何とかという方と、二人でしたが、片一方の方には、のお願いは全然ないけれども、池田さんという方のお届けが毎日こうあるんですね、それで「とてもその苦戦、とにかく当選するじゃろかせんじゃろか」というようなことをツツミさんが言われるんです、それでツツミさんに申しました「あのね、同じ五十と五十のもし勢力なら絶対当選するよ」と私申しました、ね、これは本当実際の事を言うとですね、こちらは三十であっても二十であっても特別なおかげを頂いて当選のおかげをいたっ、いわるゆ御利益ですね、いわゆるおかげを頂く働きがあるはずです、ね、けれどもそこをまあ分かる、お互いがここんところを、お取り次ぎを頂いおる、願っておる神様の働きを受けるとどういうことかということなんです、ね、私は「同じ五十と五十の勢力なら絶対当選するよ」て言うた私、ね、あのようにその苦戦だ毎日が、「あぁどうじゃろか」と心配しよったけどもやっぱり四百からの開きをつけて当選のおかげを頂いた、そのままお礼に出てきたわけなんです、まあこれは余談ですけれどもね、それで私またうんなら帰ってから、帰らして頂きましたら、丁度豊美もぜんっ、帰ってからこたつの所で編み物をしておりました、若先生はあの愛子が散髪をしてやりよりました、けん、私はもう本当にその、何と言うですかね、例えば長女なら長女にいつも思いますこと、「ほんなこてもうこの人ばっかりはもうどこのおばしゃんじゃろか」っち言うごたるいつも格好をしてからね、もうどうか娘なら娘らしゅうと、その、とこういつも思いますんです、ほい昨日は本当に娘らしい格好をしてこたつに入って編み物どんしておるその姿が本当にこれならばという感じがするんです、ね、若先生だっとんが、そうです私は昨日はもう本当に以外で以外でたまらんぐらいな以外だったんです、ね、愛子が散髪をしてるんです、ね、もうそれこそあのびぃどろぞく、びぃどろぞくかなんかっち言うこう頭なごうしったってすたい(笑)、ごたる風にして、こぉうしてもう、本当にもう金光様の先生なら先生らしゅうせにゃと思うけども、言うても聞かんのですからね、もうあれば見ると私はゾーッとするごたる感じがするんです、もう髪の、冠の下からこう出るんですよね冠つけても、ところが昨日その誰も言わんのにしかも床屋にも行かずに、短く、そのさっぱりと散髪をしているんです、もう私はもう途端に嬉しゅうなってね、有り難うなって、どこの坊しゃんじゃろかっちいうごたるいつも格好しとる豊美が娘らしゅうそのこたつの間で、その編み物どんもしておる、長男は奇麗さっぱりにその、散髪を短くさっぱりやっている、もう言うことはないそんな気がするんです、そして思うのです、ははぁなるほど、もうすぐにおかげが受けられるなということなんです、昨日私、皆さんもご承知のように朝の御祈念の御理解を頂かれるとね、後の御理解を頂かれますとそうですけど、昨日は私はもうそのことに本気で取り組んどったんです、ネながら言うておるのじゃないです、「娘らしゅうせりゃぁええところ」とか、ね、「まちっとさっぱりすりゃええ」とかと、例えばその寝ながら言うとらんのです、思うてないのですそげなこと、ね、よりもただ私が、言わば、本気でそのことに取り組まして頂いて、おりますとです、ね、言う事もいらん語る事もいらん、それこそ二つをそこにまとめて、おかげを見せて下さるんです、なるほどすぐにおかげが受けられる、なるほど物事はかどらないわけはです、自分の心の中に教えを沢山、例えば「日本国中の神を信心するが」とおっしゃるがですね、例えば教えの全てをいくらに頂いても、夕べの御理解じゃないけど、ただ有り難かったと押しいただいっ、頂いただけじゃつまらん、それを自分が頂かなければ、して自分がそれを血に肉にして行かなければ、ね、だから今日皆さんに私が言いたいことは、ならこうやって朝の御祈念にでもお参りをされる方が朝の御理解を頂いて「あぁ今日はこれで行くぞ」と、いうことをですよね、例えばなら、ね、私共の念頭のスローガンであるところの、「今日もいよいよより明るくありますように、よりにこやかでありますように」というその一心で、私共が本気でそのことをおかげ頂いたら、それが何時の間にか血になり肉になるのです、それを知っておるだけ、では寝ながら言うとるだけじゃつまらん、ね、毎朝のこうやって頂いておる御理解をです、その日一日の自分の支えとしてです、「どうぞ今日の御理解に沿わして頂きますように」今日のみ教えに本気で沿わして頂くことを自分自身が頂いたらいいのじゃ、ね、自分の心の中にいわゆる「日本国中の神を信心するが」とこうおっしゃる、言わば教えのあれやらこれやらもういっぱいここの中には持っておる、知っておる、けれども、一心と定めていない、ところにです、昨日の御理解じゃないけれども、自分の心に野者が住んでおると感じられるほどに心がいらいらしたり腹立ったりするじゃないかと、これではなるほどおかげが受けれんことが分かる、ははぁすぐにおかげが受けられる、ちょっとオーバーな感じだったんですけれどね、今日は私はそれをオーバーとは思わない、ね、どんなに目にあまる事があっても、ね、どんなに難儀な事があっても、私共が本当に心の中に一心と定めてです、もうこのみ教え一つに一心を絞ってです、ね、おかげを頂いて行くということが私は、今日この36節の、お~物事はかどらない理由と言うか訳というものをです、今日分からして頂いたような気がするんです、なるほど金光様一本だ、もう家には大神宮様もなからなければ攻神宮様もない、拝むところは神様と霊様しかないというほどにですね、北野のツツミさんじゃないですけれども、ね、そういう風にさせて頂いておるということも、ここには、ここにちゃっと歌ってございますね、けれども今日の場合は、ね、金光様一本に絞っておるけれども、ね、例えば心の中にです、教えのどれもこれも頂いておる知っておるということ、ね、もういよいよ今年のスローガンは「いよいよにこやかに」ね、「いよいよ明るく」と、まあ言うちゃおる思うちゃおるばってん寝ながら言うとるということはね、自分が実行しないながら言うておるということなんだ、ね、だからそこんところに私は焦点をおくことが、ここでは、今日ここではですね、「草木でも芯と言うたら一つじゃ」と、ね、「神信心もこの一心を出すと」と仰せられる、その一心を貫かしてもらう、今日一日のみ教えを、その一心を貫かして頂いて、おかげを頂いて行くところからですね、昨日の御理解に続くならば、ね、心の中にある野者のようなその、心も発見することが出き、その、野者のようなその心をいよいよ、見極め、それに取り組んで、ね、腹が立つ、イライラする、そこに野者のような心をとっちめれる、反省も出来るわけである、ね、そして「これではおかげが頂かれん、なるほどこれではおかげがはかどらないはずだ」ということを一つ分からしてもらって、ね、すぐにおかげが、もうすぐに神様のおかげの印というのは見える、例えば、ね、ここに病人がある、その病人がそげん思うたらもう一分で全快したという意味じゃないですよ、ね、けれどもすぐそこに「はぁ神様のこういう間違いのない働きを見せて下さるんだ、頂かしてもらえるんだ」という、そのおかげがすぐに現れてくるんだということ、ね、ですからいよいよそれに取り組まぬかして頂くことの楽しさ、有り難さというものを感じるんです、ね、そういう日々が繰り返されるのですから、おかげへ向かって一年かかるおかげなら半年で、ね、半年かかるおかげならば三ヶ月でというようにです、それを私は身近にして行くことが、ね、物事はかどらなかったそのおかげが段々思いばかがいっていく、ね、はかっ、はかっ、はかばかしくなってくる、それを、言わば、おかげがいわゆる急テンポになって行きよることを、「はぁこれならおかげ頂けるぞ」というものをです、明るい見通しを持って、いよいよその教えに取り組んで行くということだという風に私思うのです。
  すぐにおかげが受けられる、決してオーバーじゃない、物事はかどらず、そこに一つ本気で不思議を感じさしてもろうて、「なるほどこれでははかばかしくないはずだ、物事がはかどらないはずだ」と、神様がようやく立ち上がって下さろうとしておるのを、また神様を腰掛けさせるような心は、自分の心の中にある、ね、「この世の中に恐いものはない」と言うけれども、ね、恐いものは自分の心の中にある、「おかげのあるもなきも和賀心」と仰せられるが、ね、結局そのおかげのあるもなきも和賀心ならです、ね、おかげがはかばかしくないのも、おかげが受けられんのも、やはり和賀心だと知らにゃいけません、ね、困った事になる、難儀な事になる、ね、片一方ではおかげがある、和賀心にはおかげあるなら、「はぁこういう心では困った事が次々と起るはずだ嫌な事が起ってくるはずだ」ということをです、その和賀心の反対の心がある、ね、いわゆる、その腹立たしい心とか、ね、イライラする心とか、人を憎む心とか、ね、いわゆるありとあらゆる浅ましい心がです、なるほどこれはおかげとは反対の事になってくるんだということを知らなきゃいけません、おかげは和賀心にあり、ね、ですから、不幸せはわが心にありということにあるわけです、わが心というのはこれは自分の心にあるということになるのです、だから恐ろしいのは自分の心であり、また有り難いのは自分の心である、恐ろしいものも、有り難い勿体無いものも、自分の心一つの中から自由自在に頂きわけて行くことが出来るのである。
  どうぞ一つ今日はね、「すぐにおかげが受けられる」とおっしゃるその、すぐにおかげの受けられる体験を一つどうでもして欲しいと思う、ね、それがなら思いの全部が叶うということでもなかろうけれども、いわゆるそのおかげの印がすぐにそこに見える、ためには一つ心を、「草木でも芯と言うたら一つじゃ」とおっしゃる一心を定めなければいけません、「今日はこれで行くぞ」と、ね、というその一心を定めてです、ね、そのことに取り組ませて頂くということが、言わば、寝ながら、ね、自分は楽をしながら、「あああると良いばってん、こうあると良いけれども」というものではなくて、自分自身が行になり、自分自身がそれを実行して、願うのである、ね、いわゆる、そう沿わして頂くわけになるのです。
  今日は、ね、ここの36節をです、ね、「相談にくれて物事はかどらず」というところをです、どうもおかげがはかばかしくない、どうもおかげが、そのおかげにはかどって行かない、ね、「物事はかどらず」と、それは、自分の心の中に、ね、その沢山の教えはうずまくように頂いておるから分かっておるけれども、分かっておるだけでただ押し頂いておるだけでそれを頂いていない、しかも一心と定めていない、「もうこれで行くぞ」という一心がない、そこになるほど「すぐにおかげが受けられる」とおっしゃるその、すぐにおかげの頂けれるおかげが、ね、ぐずぐずしておるんだと一つ悟らしてもろうて、その体験を一つ頂いて行きたい、皆さんに頂いてもらいたい、今日はどうでも「すぐにおかげの受けられる」という体験を受けてもらいたいと、今日は36節の中から、それを思うのでございます。                                                        どうぞ。